今月読んだ本
今月(2026-04)読んだ本は3冊。
詩人で歴史家の故ロバート・コンクエストの名言を思い出してほしい。「誰しも、自分が一番良く知っていることについては保守的になる」。
能力給は、内的動機を減少させる。多くの作業が、医療においては特に、内面的に満足できるもののはずだ。 痛みを緩和し、質問に答え、手先の器用さを発揮し、言頼され、専門家集団の中で働き、パズルを解き、頼れる権威ある人間の役割を経験する。こうしたことすべてが、一日を職場で過ごす形としてはまったく悪くないことだ。医療という職業における誇りと喜びは、医療専門家の「実績」へとつながる数多い動機のひとつである。報酬や費用、還付金などに関する悪意ある議論は現代の医療従事者や臨床医たちの時間をあまりにも多く無駄にしているため、非金銭的かつ内面的な報酬が医療という職業において重要だという事実は容易にないがしろにされ、あるいは疑われさえする。不幸にも、職場における内面的満足要因を無視することは、不注意にそれを減少させることになりかねない)。
人は実績測定で判断されると、測定基準で測られることに注力するよう動機づけされる。そして測定基準が測るのはなんらかの確立された目標だ。だがそれはイノベーションを妨げる。イノベーションはまだ確立されていないこと、まさしくまだ誰も試していないことをやるものだからだ。イノベーションには実験が伴う。新しいことを試す際にはリスクが伴うし、そこには失敗の可能性が、おそらくはそれなりの確率で存在する。実績測定がリスクを取る気を阻害するとき、意図せずして停滞を奨励してもいるのだ。
人間が芸術に感動するのは、圧縮された作品を解凍して、根本に存在したはずの「ある人の認知」を受容するからだと思っている(もちろん例外もあるだろう)。僕がAIによる表現活動に対してそこまで悲観していないのは、AIには解凍した先の「ある人の認知」、加えてさらにその先に広がっている「世界」が存在していないからだ。出力された作品の質でAIが人間と肩を並べ、あるいは先行していく未来は遠くない将来に生じると感じているが、作品から世界に接続していく過程には、現実世界を生きてきた人間の持つ強さが残っている。ゴッホの絵を飾りたい人はいても、AIが描いたゴッホ風の絵を飾りたい人はあまりいないだろう。
小説というジャンルにおいて「AI」が人間に(現段階で)勝っていないのは、将棋やポーカーと違って、小説の「勝利条件」がまだ誰にもわかっていないからだと思う。言い換えるなら、「面白い小説とは何か」という問いの答えがわかっていないのだ。僕は誰よりも先に、その問いの答えに辿りつきたい。無数の作者と無数の読者がいて、無数のコミュニケーションが発生している状況の中で、どれが成功していてどれが失敗しているのか、その原因はなんなのかをすべて知りたい。
社会全体が、もっと調べろ、もっと考えろ、もっと聞くなれ、と人々を急き立てている。SNSとAIがその流れを加速している。 むろん考えることは重要である。愚かさは罪の源でもある。けれども現実には人間の能力には限界がある。あらゆる問題について合理的な判断を下し、道徳的な正しさを引き受けることができる人間など存在しない。ひとは弱い。だから賢さへの強迫が過剰だと、不安を感じ逃走してしまう。平和を感じることができなくなる。そしてより深い愚かさに突入する。二〇二五年のいま、世界で起きているのはそういうことだと思う。
戦間期のアメリカ大統領、ハーバート・フーヴァーは、大戦初期の一九四二年にすでに、「住民交換がいかに難儀な大事業であろうとも、戦争予防のために行われる住民交換の経費は戦争の惨禍に比べようもなく安上がりにつく」ので、戦後は「徹底した民族国家への再編とそのための住民交換」が必要だと発言していた。
この判断をどう評価すべきだろうか。強制移住はむろん人権侵害だ。いまならば戦争犯罪と言われるだろう。けれどもそれら強制移住のおかげで、戦後のヨーロッパはたしかに少数民族問題に悩まされにくくなった。そして長い平和が続いた。この点では正しかったと考えることもできる。
ぼくたちはいま、あまりにも賢さが過剰な世界に生きている。人工知能の普及がそれを加速している。近い将来、政治家や哲学者の言葉とLLMの出力は区別がつかなくなるだろう。そのとき人間はなにを発するべきなのかが、あらためて問われることになるだろう。
ぼくが考えないことの価値について考えているのは、その時代に備えるためでもある。人工知能は哲学は理解できるだろう。政治も理解できるだろう。それは考えることだから。しかし平和は理解できないだろう。それは考えないことだから。人工知能にとって平和は意味がない。考えないことは停滞でしかない。しかし人間にとっては意味がある。
大量死と大量生のこの連続性は、ここまで数値化の暴力と呼んできたものと深く関係している。
世界をすべて数値化する能力、それはけっして大量死を可能にするだけでなく、大量生もまた可能にする。ぼくたちは数値化の暴力があるからこそ、大量の人々をモノのように処理し、収容所に送り込むことができるが、しかし、同じようにその暴力があるからこそ、大量の商品を安価に生産し、大量の人々を規格化された団地に住まわせることができるのである。
けれども同時にぼくは、人類はどうせけっして賢くならないだろうとも思う。人類はこれからも戦争をするだろう。事故も起こすだろう。虐殺すら繰り返すかもしれない。個人はたしかに賢くなる。けれども群れは賢くならない。なぜならば群れはつねに若返り続けるからである。新しく愚かな個体が補充され続けるからである。それは希望であるとともに人類の限界である。いかなるイノベーションが生まれたとしても、人類が人類であるかぎり、その条件は変わることがない。
プールでぷかぷかと浮いていると寛容になる。それはそうかもしれないが、プールは自然に存在しているわけではない。プールを維持するには多数のスタッフが必要だし金もかかる。リゾートのユートピアは、そのような「裏方」「バックヤード」を見えなくすることで成立している。 そこに目を向ければ、必ずどろどろとした政治がある。原発事故が突きつけたのは、まさにそんなバックヤードの醜さではないか。そのような世論の変化によって、ぼくの主張はたいへん分が悪いものになってしまった。
リゾートを享受する客のほとんどは、ほかのどこかで他者に奉仕し、対価として金銭を獲得した人々だ。つまりフルタイムで動物なわけではない。 ここに現代社会の重要な特徴がある。ひとはときに人間になり、ときに動物になる。同じ人間があるときは裏方となり、あるときは客となる。それは裏返せば、現代社会では搾取するものと搾取されるものを実体的に区別できないということを意味している。ある局面で搾取されているひとも、ほかの局面では搾取する側にまわっているかもしれない。階級が分かれているわけではない。いま左派が力を失っているのは、そのような変化に対応できていないからだ。
客が存在しなければ裏方も存在しない。裏方がものを考えるのは、客がものを考えなくてもよいようにするためだ。そしてその客はべつの局面では裏方になり、裏方はこんどは客になる。ぼくたちはそのように「ものを考える」局面と「ものを考えない」局面がモザイク状に組み合わされた時代を生きている。いいかえれば現実と幻想が不可分に絡みあった時代を生きている。それが消費者的 生産者的、あるいは客的 裏方的二重体の時代だ。
ぼくたちは、あらゆる現実を見えなくして、幻想と魔法で世界全体を包みこもうとしている。
テーマパーク化とはそういうことだ。そうでないと、ぼくたちはもう社会生活を送れないのである。
